ニセ科学はその姿勢に問題がある – 反論に対して –

 
 以前書いた、
 
 
という記事に対して反論があった。
 
 反論内容としては、
水の結晶は科学の教育としてではなく、あくまで道徳の
教育に科学を利用しただけだから、ニセ科学は問題ない*1
というもの。おそらく、大半の教師もこのような考えだからこそ、
多くの現場で用いられるような事態となったんだろう。道徳の
教材として使えるからと言って、使用しているわけだ。しかし、
それは科学的姿勢というものを軽視して、物事を表面的にしか
捉えていないから、そのような考えが生じる。

 "ニセ科学"というのはなにが問題か。この件に関して、
問題なのは非科学的事物を科学的論証なしに、科学的
事物と称することにある。その具体例として、"水の結晶"
を科学であると称し、"これは科学的事実である"という風
に称しているということがある。

 思想の問題ではなく、"科学"に対する姿勢の問題であり、
取り組み方の問題。ひいては、"科学的論証の重要性"と
いうことにある。サイエンス(科学)とニセ科学は、等価的に

扱ってはいけない。厳格に区別しなければいけない。この、
"科学的姿勢"を失えば、科学という1つの真理体系は崩れ
ることになる。*2
 
 また、プロトサイエンスとニセ科学も区別しなければならない。
一部のWebサイトで、疑似科学(ニセ科学、エセ科学)とプロト
サイエンス(未科学)を混同しているようだが、この両者は厳格
に区別しなければならない。科学的方法に則っているか、それ
とも科学的方法に則らず、科学という体系を偽っているか。
そこには、大きな違いがあるということは言うまでもない。(参考文献[1])

 実証されない以上は、それは科学ではない。このことを肝に銘じなければならない。

 
 何度も言うが、水の結晶にしろマイナスイオンにしろゲルマニウムにしろ、その
仮説に対して、科学的方法に則ってその"確からしさ"が得られない限りは、それ
は"科学"ではない。それは、実証が得られない以上は、"未科学"に分類される。
その上で、なお科学と称するならば、それは"ニセ科学"であり、科学に対しての
冒涜である。これは、立派な詐欺行為であり、これらに対しては糾弾しなければ
ならない。
 
 

参考文献

 
 

備考

*1
 そもそも、この反論は論点がずれている。以前の記事における論点は"ニセ科学
がなぜいけないか"であるわけだが、反論内容は、ニセ科学そのものに言及して
おらず、"水の結晶は道徳上良い。だから、ニセ科学は良い"という非常に論理が
飛躍したものである。特称論的言及をもって、全称を示すというのは、非常に非論
理的であるが。『僕は、バカだ。だから、ヒトはバカだ』とでも言うつもりか。再三言う
が、僕の論旨は『"科学"と"ニセ科学"を厳格に区別しなければならない』ってこと。
水の結晶の内容が美しかろうと、素晴らしかろうと議論にまったく関係がない。重要
なのは、ニセ科学というものの姿勢。科学でないものを、科学と称することの重大性。
だから、この反論はそもそも反論足り得ないのだが、そこはあえてスルーしておく。
話が続かなくなるので。
 
*2
 こういう言いかたをすれば、"そもそも科学は真理ではない"という反論が出るが、
科学が真の意味で真理であるかどうかという議論は、この際無意味であることは
言うまでもない。現実においては、"科学"を1つの実際的な真理として捉えている
わけで、それが仮のものであろうと偽であろうと、実際的にはそれが真なのだから。
その上で、その科学の"確からしさ"を考えたとき、科学の"確からしさ"を確からし
めるのは、科学的手法であり、その科学的姿勢であるということ。もし、ニセ科学の
存在を許せば、それはひいては科学の"確からしさ"を貶めることになる。
 
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